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 盃を交わすのは、やや古いが、兄弟仁義を固めるセレモニーのことだ。
 今のヤクザ組織には、このコミットメント儀式の意義が薄れているが、現代人の中にも憧れに似たものがある。私が今も、清水次郎長こそ男の中の男として、崇敬して止まないのも、そういった社会的憧憬(ソーシャル・ノスタルジア)に呪縛されているからだ。
 清水次郎長親分は、個を殺して――陰徳を重んじ――組織のために尽くす、義侠心の男で、個人プレーを蔑む。だから街道一の親分になった。戦後、占領軍は、浪曲を禁じた。こういう結束の強い男社会は、民主主義推進の邪魔になるからだ。
 男を弱くし、女を強くしなければ成り立たないのが民主主義だからだ。
 ヤクザたちは、刺青を「我慢」と呼ぶ。よほど彫られる時は痛いのだろう。刺青は、その名が示すように青である。紺やインディゴはサムライ・ブルーである。江戸時代の罪人に入れた、真黒の墨ではない。三島の好きな青は、刺青の青であって、決して罪人の入れ墨の黒ではない。あくまで伝統的な藍色である。

組織に不可欠な信賞必罰のルール
 なぜヤクザが強いのか。今も東京では山口組と住吉組がナワバリをめぐり、ドンパチを始めているが、完全に取り締まることはできない。
 日本の社会は、歴史的にみても、表より裏が強い。茶道の社会でも、英語道の社会でも、表より裏の方が磁力がある。より知られるより、より「恐れられる」のであろう。
 強い組織ほど、よりヤクザ的に運営されている。ヤクザはメンツ・ビジネスといわれるが、死を恐れず、途中でギヴアップしない意地がある。それに、指を詰めるという自己責任のルールがある。
 今の暴力団化したヤクザ組織は、露骨に「指なんかより、カネを出せ」というらしいから、任侠道はすたれている。
 しかし、自己責任のルールがある限り、組織内の裏切りは未然に防がれる。内部告発は死に値する。断指の延長に切腹があるとすれば、極道こそ三島由紀夫の世界となる。

裏社会は品格より気概
 映画好きの三島由紀夫は、鶴田浩二や高倉健の気概に心をときめかせた。最近、高倉健が田岡を演じる『山口組三代目』を浅草で観た。敗戦後の神戸で、復讐心に燃えた第三国人たちにいじめられている日本人を身体を張って守ろうと立ち上がった、田岡の心意気に、殉死したい仲間が集まった。
 そこに気概があった。品格は表の世界だが、気概は裏の世界だ。三島が小説『潮騒』の中でさりげなく触れた「気概」こそ、今の日本に欠けている意識ではなかったか。愛国心以前のelan vital(ベルグソンのいう「生の躍動」)ではないか。
 三島が表社会の品格の欺瞞を見抜き、裏社会の真紅の気概を見いだした。
 三島が夢見たのは、大陸の文化の品格ではなく、海洋国家の気概であったはずだ。極道の親分にさぶらう緋色の意地ではなく、国家に殉ずる紫色の死に憧れたのではなかったか。

三島の殉死は紫色だったのか
 青と赤が混ざれば間色の紫という雅(みやび)の世界に戻る。根っからの貴族(青い血)であったのだろう。三島が格別に意識し、嫌悪し、敬遠した松本清張とは異次元の世界だった。あの俗臭漂う血の池で蓮のように咲いた雅俗な清張文学とはあまりにも色彩が違い過ぎた。風雅の道は、決して真紅ではない。三島は最期まで、聖なる青い糸を絶ちたくなかったのだ。
 三島が雅のある西洋風の私邸にこだわったのも、精一杯のつっぱりだったのかもしれない。
 三島の殉死は、紫色だったのか。今の私にもわからない。