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三島由紀夫は磁石を恐れ、畏れた電池ではなかったのか?
 奥琵琶の紅葉を期待して湖東に足を運んだ。残念ながら山はまだ錦秋の紅をさしていなかった。紅葉の遅れは、11月にもなろうというのに残暑を思わせる、この暖かさのせいだろうか。湖岸に連なる木々や遠近の山、それらを映す湖面もどんよりとした深い青緑色だった。
ブログだからといって、くだけた文体で書くのは意外に骨が折れる。何を書くか、この軽〜い時代に。といって軽く書き過ぎると、読者からなめられる。それなら、他の人に差をつけるように、華麗で凝った文体にすれば、いずれメッキが剥がれる。化けの皮が剥がれない程度に「軽さ」に挑む!!……また重くなったりして…。
紘道館の公式サイトで連載している「青い糸」は、三島由紀夫が私にとって何なのか、を問いつめる雑感日記のようなものである。三島の文化防衛論にはしびれた私だが、なぜか三島のどの小説を読んでも、心がときめいたというためしが一度もない。
三島は私にとり何だったのか。気になる本『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(橋本治著、新潮文庫)を読んだ。そして目からウロコが落ちた。
三島由紀夫は、磁石を恐れ、畏れた電池ではなかったのか?その証拠は、橋本治氏が明かしている。三島由紀夫は松本清張を拒否したというが、なぜなのか? 嫉妬なのか?
……「松本清張は、現実の事件を題材にして「真実はこうだ」と展開する作家である。三島由紀夫はそんなことはしない。現実の事件を逆立ちさせて、完全に「自分の世界」を幻出させてしまう作家である。『金閣寺』は、その典型だろう」(P.410)
なるほど三島の描く作品を読んでも、三島の中に他者がいない。他人も自分なのだから、磁界が弱いのだ。三島の作品がすべて私小説の延長というのなら、ブログで自分を露出し続ける――電池が切れるまで――行為と変わらない。
電池人間は、放電し、切れるのが早いから、周囲に充電器を求める。多分身近な人間模様でしか充電できない。17歳から小説を書き続けた天才三島は、次々に新しい刺激を求めた。ところが学歴不足の松本清張は、充電期間が長かった。40歳から頭角を現したというから、まさに磁石人間である。男と女という両極を軸に、ドロドロした愛や嫉妬から生じる葛藤を描く、まさに天然磁石のような存在だ。
私が人生を旅と定義し、行をする旅人に憧れるのも、磁石の永続性を信じるからである。戦後教育は、社会ですぐに役立つ電池人間を大量生産した。そのアンチテーゼが磁石人間を鍛える私塾であろう。
学校は教えても育てない。私塾(紘道館を含め)は、自立する道を教える磁場である。磁力を高める方法は「行」でしかない。
  ふと外をみると、琵琶湖の湖面が西日をうけ、ガラスの破片を撒き散らしたように
キラめいている。これがさっきまで深緑色だった湖か…? 夕焼けに染まり、閑散としていた湖畔にカメラを抱えた人がゾロゾロ集まりだした。まるで磁石に引き寄せられるように私の足も湖に釘づけになった。
2006年10月31日
紘道館館長 松本道弘