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『鈍感力』という本 |
『鈍感力』という本が読まれている。
小泉元首相が安倍首相に勧めた本らしい。売れっ子作家の渡辺淳一が書いた本だから、ブログ用のコメントにはもってこいだとの誘いにのって、速読してみた。さすがプロ・ライターらしく、肩に力が入っていないので、リラックスして読める。
さて、結論から言うと、このブログを読んでいる人には勧められない。ただし本を読むヒマのない人――例えば政治家やプライバシーを必要とする有名人――には勧められる。
1.英語のタイトル The Power of Insensitivity が気にくわない。
無感性と力とは結びつかない。感受性をなくす方法はあっても、鈍感を研く能力というのは論理的ではない。渡辺淳一氏はカタカナ英語が好きとみえて、『センチメンタル・ジャーニー』(名著なのに、なぜカタカナにするのか。感傷旅行でもいいのに)にしても、ややプロにしては鈍感だと思える。とくに、ナイーヴというカタカナ英語が乱発されているのが気懸かりだ。本書の一番肝心なしめくくりの言葉に、「そしてこの鈍感力があってこそ、鋭さやナイーヴさも、本当の本能となって輝きだすのです」とある。ナイーヴをなぜ、繊細という日本語に置き換えないのだろう。英語のnaiveには、「世間知らず、うぶ(幼稚)」という否定的な意味でしか使われない。意味論に関しては、私は神経質なほど敏感である。ただしカタカナを多用することは、奇をてらい読者の注目を浴びるには有効だ。
2.鈍感は本質的に勧められない。
冒頭から断ったが、野党やマスコミに叩かれる有名人は、人口比からすれば、1万人に1人よりも少ないだろう。そんな人のために、鈍感力を勧めるというのは、too naive(鈍感に過ぎる)に過ぎる。
沖縄でグラスボートに乗った。ガイドが言う。「サンゴ礁で生き残る熱帯魚たちは、すべてビクビクしている。神経質で警戒心や懐疑心が強い魚たちだけが生き延びるのです。マイペースの魚はすぐに食われてしまします」と。
都会人は、魚ではない。しかし狭い空間で生きていくには、熱帯魚のように神経質なタイプの方が長生きできそうだ。ただし、熱帯魚も水槽の中で飼われるなら鈍感でもいいが…。
ポジティヴ・シンク。これほど迷惑な商法があろうか。断られてもケロッ。自己だけのゴールを達成することしか頭にない。ノウと断る方が、いかに傷ついているかという配慮は全くない。そんな人たちが私の周囲にも増えてきた。要するに、褒めて欲しい人たちだ。叱られることが大嫌い。そして、自分に都合の悪いことは耳に入れず、自動的にシャット・オフしてしまう。森進一と師の川内康範との対立といえば、もとをただせば、森進一の鈍感性(何回注意されていても反応しなかった)に原因があった。
いくら注意しても馬の耳に念仏。一人の鈍感人間は周囲の和を乱す。もっと気配りを身につけるトレーニングを身につけてはどうか。団体生活がいいだろう。鈍感力を鍛えるには、煩わしい人間関係を避け、メールだけで鈍感を突き通すことだ。それとも、好きなことを書いて生活ができるプロ・ライターを目指すことだ。
3.志が欠けている。
何のために鈍感力を勧めるのか、その哲学がよく見えない。「母親の愛は、鈍感力の最たるものです」。この観察は、ややこじつけ――奇をてらっているのかも――であるにせよ、核心をついている。しかし、鈍感力は、無償の愛と同じだろうか。
母親の愛は、まさに無条件の愛である。母としての愛は実に広大で、敏感とか鈍感といった次元の差を超越したものだ。敏といえば敏。鈍といえば鈍。
光る母親の愛に対し、父親の愛には志がある。志は自己愛というエゴを超越したところに存在する。母が産んだ子供に全ての無償の愛を施すのに対し、父は、志のために、できる息子を自分の後釜に継がせ、できない息子を見捨てる。むごいと母は思う。しかし父は、その鈍感性が教育には必要であることを本能的に知っている。志が違うだけである。
志を貫徹するための行為は、勇気であって、鈍感力ではない。志さえあれば、たとえ世間からいじめられても、無視されても、耐えることができる。いじめられっ子に「鈍感になれ」と説いたところで、自殺を思いとどまるだろうか。その反対に、いじめっ子に「鈍感になれ」と言えば、いじめを止めるだろうか。
気が弱い人間に必要なのは、鈍感力ではない。志を立てること。そしてそれを貫く忍耐と勇猛心である。
ただし、こんな当り前のことを書くと本が売れない。しかし、英語をモノにすると志を立てた人に必要なのは、鈍感力ではなく、志と勇気、それに敏感力(sensitivity)だ。
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2007年3月25日 |
紘道館館長 松本道弘 |
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