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あらゆる芸術家は水銀的である

 ×××は性格も、「すこぶる水銀的」であったという。
 水銀はてごわい物質である。それはこぼれると、無数の玉になってころがり散る。かき集めようとすればするほど、さらに小さな玉に分裂する。そうかと思うと、ひとつにまとめるのを断念した後でふと見れば、またよりかたまって球体を成していたりする。(P.41)

 この×××とは私のことではない。また私が求めているサッカー・ディベートの六角ロジックでもない。
 彫刻家イサム・ノグチである。
 芸術家は水銀的である。ドウス昌代による「イサム・ノグチ」を読んでも、水銀的という日本語にひっかかる。
 美術評論家リチャード・ラニアーはノグチの芸術的多様さを水銀的≠ニ表現したが、原文をよめばmercurialという形容詞を使ったはずだ。
 英英辞典でmercurialを引くと、
 often changing or reacting in a way that is unexpected となり、芸術的な「気まぐれ」が感じられる。気の短い私も芸術家に多いmercurial temperament を持っている。
 私の波乱万丈な芸術的気質も「水銀的」と表現せざるをえず、いつも周囲を翻弄させてきた、そして今も。
 私はマイク松本という名前を辞めて、松本道弘で通すことにしたのも、両親が日本人であったから、そこに血の連続性があった。しかし、ミケランジェロの再来と謳われたノグチ・イサムは、合いの子(ハーフ)であり、二ヶ国語が自由に話せるのに、二つの文化の間でどちらにもいじめられた。
 「芸術家には家族が要らぬ」と聞かされて育ったイサム・ノグチの気質は根無し草的でピカソ並みにもてた。しかしこの代価として、どちらの国にも属すことのできない寂寥感を味わった。
 同じようなアイデンティティー・プロブレムを抱えられた我が師西山千も、両親が日本人であったためか、セン・ニシヤマとカタカナ表記されることは一度もなかった。しかし西山千氏は、自分の宗教はもとより、自分の過去は決して私に語られなかった。私も聞こうとはしなかった。水銀的にカーッとなる師の芸術的衝動を知ったからだ。
 イサム・ノグチは詩人であった父を憎んだ。妊娠したと知った母を捨てて、好きな女と結婚をした。無責任な、いや芸術的なオヤジだったのだ。アメリカ人の女房は、英語のチェッカーとして利用されて、捨てられた。最後まで籍を入れられずに。芸術家でなければ許されない暴挙だ。<許されない>と憤り続けた私生児イサムを育てたのは青眼(アメリカ人)の母であった。
 なぜ、今、私が、このブログでイサム・ノグチを書くのか。
 怒り≠ェ育てたこの異端児について――。
 モエレ沼公園で、戻る家のないノグチがアイヌの魂に触れて安らぎを覚えたように、私が彼のマーキュリアルな芸術的衝動に共鳴したのかもしれない。
 しかし、私の深層心理には、最後まで私の理解が及ばなかった師・西山千という天才同時通訳者の生きざまをもっともっと知りつくしたいという、抑えがたい衝動がある。鎮めたい怒りもどこかにある。恩返しの気持ちもある。今、行方不明の師に会いたいという思いもある。90半ばの師匠に対する鎮″ーの思いは焦りと共につのるばかりである。
 イサム・ノグチという巨匠の波瀾に富んだ生涯(父への憎しみ、華麗な恋愛遍歴、戦争etc.)を顧みることにより、我が師の苦悩に一歩でも近づき、理解が深まればというelan vital(生の衝動)が熱くなるばかりだ。やはり私も芸術家なのだろう。

 
2007年4月6日
紘道館館長 松本道弘