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共に英語の花を咲かそうではないか |
信濃の高遠(たかとう・伊那市)の絵島(悲運の大奥女中)の墓には、日本タンポポが咲き乱れていた。日本列島はすべて繁殖力の旺盛な西洋タンポポに席捲されているというのに。ヨコに葉を拡げず、深く地下に葉も根も下ろす日本タンポポが、この地に生き延びていた。
桜が散り始めたこの境内では、墓地の土からタンポポがこぼれ出るように咲き誇っている。
「ヤマトタンポポのファンだから、西洋タンポポなんかに侵略されてたまるか」と競争意識をムキ出しにするのは野暮。
ナニワ英語道に帰依しているがため、TOEIC信奉者を口汚く罵る愚行に等しいではないか。醜い。ナニワ英語道は宗教ではない。勧誘は好まない。同じく日本という土壌に咲いたタンポポだから、これもご縁だろう。
共に英語の花を咲かそうではないか。
花。
この言葉は、ナニワ英語道と関係がある。「花」とは、役者および役者の演技・演奏が観客の感動を呼び起こした状態のことで、観客を魅了した時、「花」が咲くのだ。
世阿弥が「道のため、家のため」に書き著した『風姿花伝』は、私の芸≠フバイブルであるが、私も英語の美、魅力、感動を「花」にたとえることがある。
「強い英語は美しく、美しい英語は強くあれ」と。
花の理(ことわり)には二つある。
一つは用花(現象の花)―― 時分の花。
「青少年の頃は英語のコンテストで賞をもらったなあ」「声も良かったなあ」「かつて英検で1級までとったもんだ」「スコア・アップのため仲間と競い合ったなあ」等々と昔を偲ぶ侘しい英語だ。
―― おじいさんの古時計と同様、もう使えない ――
これに対して性花(本質の花)というのがある。芸風、芸格の花というものと、時分の花とも結ぶ工夫の花で、私がこの歳(67)で求めているのもこの性花だ。結実の美。
日本タンポポと西洋タンポポを「花」ととらえれば、共生はできる。
この歳でテレビにカムバックする気はない。時分の花で勝負はしない。しかし、テレビを格闘場(リング)として、工夫の花(私の場合はジャーナリスティック・インタビュー)を咲かせたい。
英語道七段ともなれば、ライヴで世界の要人と英語でインタビューができる。腕が鳴る。
人は「年寄りの冷水」か「物狂い」と嗤うかもしれない。それでもよい。狂いこそ、美。これは知行合一を説く陽明学からも影響を受けたナニワ英語道の要諦である。
花の命は短い。しかし、この老齢のヤマトタンポポももう一度、狂い咲きたい。
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2007年5月11日 |
紘道館館長 松本道弘 |
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