紘道館の公式サイトはhigh brow(インテリ向き)でスロウだが、別に気取っているわけではない。その点ナニワ英語道は、アップ・ロード速度も速い。ロウ・ブラウ(大衆向き)というイメージ戦略が効いたのか、訪問者数はうなぎ登りで、紘道館HPのPRの助けになっている。これも陰徳と言おうか。
高くとまることをplay hard to getと表現する。その反対に「(気取らず)ええかっこはしない」(英語ではさしずめplay “soft” to get)は、ナニワ向きだ。私には両面がある。
「あの男は許せない」が江戸好みなら、
「騙されたウチがアホやった」は浪花好みだろう。
「ウチが嫌いになったら、捨ててくれてもええよ」という女を捨てるわけにはいかない。ハーバード大学の交渉学では、これをsoft bargainingという。こういう手合いの女も、却って手強い。
大都会ならDump me at your own risk.(私を捨てるなら、慰謝料をがっぽり請求するからね)というhard bargainingの方が即効性がある。
しかし、I doubt if it works.(ほんまに効くんかな。―― 却って、別れ話をこじらせることにならないか…)
東京・大阪という対比はやめて、大都会と田舎に視座を変えてみよう。
ナニワ英語道のブログ担当者(匿名希望)は、ナニワ英語道は地方向きにしたいという。「何のために英語をやるの」と問われて、返事のできない人がゴマンといる。そんな電池型英語学習者たちに英語の「道」、そして人間力を研く英語の「行」を説く方が世の為になるという発想だ。
その人たちへの忠告はこれ。
英語はロジック。ロジックなら日本語でも学べる。だからディベートも、英語でできなくてもいい。まず日本語でディベートをやりなさい。思考を練るなら、忙しい都会より時間的余裕のある地方の方が向いている。
閑話休題。最近、京都の立命館大学で関西サッカー・ディベート協会主催のバイリンガル・サッカー・ディベートをさせた。毎回、殆んど準備なしでバイリンガル・サッカー・ディベートをやる紘道館のようにはいかない。
結果は無惨!
会長である私は、仲間の教授達(3人の理事)と相談して、思い切ってオール日本語に切り換えた。論題も、その場で考えた。
「愛されるよりも愛する方が良い」
オール日本語でやったから、準備時間も30分だけ。しかし大いに盛り上がり、大大成功。
こういう価値ディベートは、コンテスト・ディベートではできない。長期間のリサーチを必要とする政策ディベートでは、即興性よりも記憶力やリサーチ力にウエイトが置かれ、必ずしも思考訓練には役立たない。だから、ディベート嫌い人間を産む。
その点価値ディベートは、証拠や資料よりもnative intelligence(両親から預かり受けた知能)を活性化させるので、ディベート好き人間を産む。必要に迫られて英語をやるので、使える英語が身につく。
価値ディベート? そう、身近なテーマのことだ。
関西サッカー・ディベート協会のチーフ・インストラクターであるゴードン・スコット氏(東洋大学)は、「深い思考を学ぶなら、身近なテーマの方が良い」と言われる。
スコットと私はコーヒーを飲みながらでも身近なテーマでディベートをenjoyする。彼も私もバイリンガル、そしてバイカルチャル。
サッカー・ディベートの究極の目的である「空」とは何か。こんな哲学もディベートをする。「空」はGodのようなものというが、いやnothingness(ゼロ)に近い、と話を煮つめていくと、「次の論文にはそのことを加えてみます」と謙虚に答える。意地を張らないところがディベーターらしい。
私も「空」を意識する人間の一人として、自説にとらわれない。
たとえば私が、風に乗って飛び散り、どこにでも根を下ろすたくましいタンポポがナニワ英語道のシンボルであると立論する。しかし、マクロビオティックを実践されている某編集者から反論された。
「マクロビオティックでタンポポの陽としての効用は認めます。より大衆にアピールするでしょう。たしかに、蒲公英は中国でも若い葉は食用・薬用にもなることも知られていますので、原理・原則としては正しいと思います。
しかし、人もいろいろ、花もいろいろ。すべての人が庶民性を望んでいるとは限りませんから、どんな花があってもいいと思います。月見草、忘れな草、宵待ち草、泥の中で花を咲かせる蓮華 ―― 美しいやまと言葉の花がいっぱいあります…」
この反論には、私もうーんと唸ってしまった。花もそれぞれに品格がある。花は花。
札幌で咲くナニワ英語道の信奉者がたとえ十数名であったとしても、りんどう(竜胆とも書き、健胃薬とされる)の花 ―― タンポポでなく ―― がひっそり咲くことになる。
浜辺の人たちが5〜6名集まってナニワ英語道のファン・クラブをスタートさせようとすれば、はまゆう(浜木綿)クラブになるだろう。いかにたくましいタンポポでも、海岸の砂浜で根を張るのは難しいはずだ。
ナニワ英語道は風に吹かれてどこへでも飛び、どこにでも根を張らせて見せたいという私の『気概』は、タンポポのそれであっても、人も花もそれぞれの咲き方に誇りを持ち、失ってはならぬ品格があるはずだ。
そこまでタンポポ規格で統一してはならない。biodiversity(生物学的多様性)は、ナニワ英語道の基本哲学ではなかったか。かといって、私のタンポポ哲学を捨てたわけではない。
その某編集者の勇気ある反論 ―― 別に勇気といえるほどのことでもないが、日本ではそう解釈される ―― により、はっと目が覚めた。
debateとは「前向きに検討すること」「品格のある建設的議論」「後にしこりを残さない爽やかな議論」のことだ。
ナニワ英語道のシンボルが実のなる花なら、その品格を尊重し、花名は問わない。タンポポの気概さえあればよい。
さて、紘道館のシンボルは、桜でも梅でもない。竹でもない。それらを含んだ松≠ナある。能舞台で見る、あの「松」のシンボルだ。
「松」は、神霊が宿る「よりしろ」(依代)だ。
松をシンボルにするもう一つの理由がある。それは、今年より辰(龍)歳生まれの私自身が大見得を切って「ドランゴンの松」と自主襲名したからである。
これは超論理である。
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