黒川紀章。この人物に関してはいやな思い出がある。大阪万博が開催された年(1970年)、建築家たちの未来都市シンポジウムの同時通訳に駆り出されたことがある。
丹下健三、川添登、岡本太郎、黒川紀章と、名だたる芸術家ばかり。
(ええ、彼らの日英同時通訳? なんという光栄!)
胸がときめいた。
上京してアメリカ大使館のプロ同時通訳者として認められる前のセミプロ、そして名無しの頃の話だから、20代後半の恐いもの知らずの頃であった。
その頃の黒川紀章も生意気であった。
マイクを持って、話をする。私が彼のスピーチを同時に英語に訳す。彼は、私の英語に耳を傾けていて、正しく訳せば頷き、次のセンテンスに移る。
なんという派手なパフォーマンス。
(私は芸術家だが、同時通訳者の英語力も判る。だからこのように、英訳を確かめながら喋っているのだ)。この種の立ち回りは鼻につく。
これは、プロの同時通訳者にとり最大の侮辱である。
日本語にも英語にも独特のリズムがある。「1970年の…」で止められても、英訳できるわけがない。
ダイエーの中内功氏の時もこの調子で ―― 本人は気配りのつもりであったと思うが ―― やられて往生した。しかし、黒川紀章の「いやみ」はなかった。単なる無知。
プロの同時通訳者は、間≠フ埋め方が巧い。前の文章を引きずって、自然な英語に置き換えるのであるから、ウーとかアーがなく、淀みなく喋っているという印象を与える。
「1970年の…」で止められてはかなわない。
日本語の「間」を英語の「間」に瞬時に置き換えるのは、同時通訳者の腕である。沈黙も言葉で埋めなければならない場合もあれば、言葉を沈黙に沈めるケースもある。
「縁とは不思議なものでして…」で止められては困る。今なら、By the grace of God …と瞬時に置き換えることができるが、当時の私には、そんな離れ技ができない。英語道弐段の力では無理だ。
それでもひとかどのプロ芸術家を自認していた。同時通訳はa spoken art である。私はartistである。政治好みの黒川紀章以上に芸術家である。それに武芸者である。
ところが、同じくartistである黒川紀章は、このspoken artistをなめてかかっている。同時通訳者の英語をチェックするため、間をとり、しかも頷き、いかにも、オレは表の人間で、裏でしかすめない同時通訳者の力量など知り尽くしているぞ、というパフォーマンスだ。
間のとり方がいやらしい。
ブースからイヤホーンに入る私の英語をチェックしている。採点している。
こしゃくなサムライめ! この忍者をなめやがって!
これだけの屈辱を感じたことは、私の同時通訳時代になかった。
(いいかげんにしろ!!)
つづく
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