庖丁の語源だが、これは紀元前4世紀頃の古代中国宮廷に使えた丁(一説には庖丁)という料理人の名に由来するといわれている。
丁は牛の解体の名人であった。庖(包の別字)は、厨房の厨と同じ意味だ。
そこで働く丁が持っていた刀を庖丁と呼び、転じて料理人をも意味するようになった、という。
ここが重要だ。
日本では、鎌倉時代末期の『徒然草』に「料理をすることが庖丁で、料理をする人を庖丁人」とあるが、いつの間にか「人」がついた。
これは今日、大勢の通訳者が、翻訳者は翻訳と呼び捨てにせず、「人」をつけるというのに、通訳は通訳者と言わずに、通訳≠ニ呼び捨てにするのは理不尽だ、という怒りの論法とよく似ている。
通訳者という言葉の使用は、我師・西山千氏がその筆頭といえる。私も抵抗なく通訳者という言葉を使うようになった。しかし、浅草の職人・村松増美氏(同時通訳の神様だとの誉れ高し)は、「通訳でいいじゃないか ―― 本人とそのプライドがあれば」と反論される。
これが昔ながらの職人かたぎなのであろう。
庖丁だけでいい、庖丁人といわれ人格が認められたといって喜ぶのは、料理に命をかけたプロの料理人ではない、という開き直りの発想だ。
あの湯木名人(吉兆創始者)が私に近づいてこられた時、人間同士の出会いというより、庖丁と通訳、つまり道具と道具の対決ではなかったか。
私の英語力を試さず、人間力を試しておられた。
人を見れば英語がわかるというのは、ナニワ英語道の極意だ。
上方の芸人気質には ―― 江戸のそれとは違って ―― 上か下かという発想はない。どちらがより磁力が強いか、どちらの生き方に味があるか、を見ている。
「あんたの英語力、なんぼのもんじゃい」(What’s it worth?)
itは英語であったり、庖丁であったり、人間力であったりする。
つまりitとは、あらゆる流派に通じる心のことである。
「吉兆」の庖丁、恐るべし。
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