我が師・西山千先生の哀悼手記を、
ナニワ英語道ブログ(http://plaza.rakuten.co.jp/eigodoh/)で公開している。いずれ館長ブログでも西山先生との思い出に触れ、師を偲びたいと思う。
ある人の同時通訳をするということは、その人のテーマだけではない、その人の「人となり」をインプットしてしまうことだ。トータルな情報を吸収しないと、同時通訳はできない。瞬間芸といえども、準備段階で全て、勝負はついている。同通は真剣勝負だ。
今も同時通訳のデモをする時は、相手のネイティヴに会って、最低数十分間、品定めのインタビューをする。スピーチをする相手の頭脳に入ってしまえばしめたもの。
ディベーターが論客相手の思考の図面を覗き見る心境で、ワクワクする。同通は戦争でいえば心理戦である。過日、椙山女学園大学で同時通訳のデモをした。
同通風景は、You Tube(http://www.youtube.com/watch?v=_n3EV0ehPPc)で紹介されている。インターネットの時代とはいえ、画面を見るたびに、あの時の緊張感が戻ってくる。敵を知ることだ。
湯木貞一名人(『吉兆』創始者)には忍術の心構えがあった。日本語のやりとりだけで私の同通技術のレベルを見抜いておられたのか、リラックスして喋られた。
忍者界(intelligence community)は、司馬遼太郎に言わせると、夜の世界だ。昼になると、忍者は消える。当時、夜の世界は東京のサイマル(村松増美代表)とインターオーサカ(小谷泰造代表)に二分されていた。サイマルは東京の、そして日本の中心で、大阪にプロの同時通訳者がいるはずがないと半ば小馬鹿にしていた。
くやしいが、その通りであった。
それがくやしいと歯ぎしりしていたのが、関西は関西のプロを使いたい、という関西財界の重鎮たち(とくに住友化学)であった。彼らのエゴと、国際会議で食っているインターオーサカの意地が火に油を注いだ。
しかし、実力差は歴然としていた。
インターオーサカの教育担当が下忍の私であったから、まだ農民兵の集まりといった風景だった。
東京には、上忍(村松・小松)を初め、プロ級の中忍(鳥飼玖美子等)、その他下忍がゴロゴロいた。
上方の対決は、せいぜい京都派(YMCAの岩田静治)と大阪派(インターの松本廸紘)というローカル戦にとどまっていた。しかし、万博期間で、ほぼ毎日のように同時通訳をさせられていた私は、いつの間にかプロになり、インターオーサカの守護神となり始めていた。東京陣営を意識し始めた頃だ。
東京では同時通訳の技術面ではかなわない。あのサイマルの村松増美、そして米大使館の西山千が君臨している。どちらも雲の上の存在だ。
それより、大阪の田舎侍に同時通訳ができるのであろうか。
大阪財界は、そのことが不安の種であった。
とすると、あの湯木名人は、私の、そしてインターオーサカの力量を偵察に来られていたのか、それとも励ましに来られたのではなかったか。
「同時通訳は任せて下さい」とプロらしい私のハッタリ(faking it)も見抜かれていたのかも知れない。
今、思い出しても身震いが止まらない。
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