図書館で、渡辺淳一の『秘すれば花』(サンマーク)を見つけた。
この館長ブログで、氏の『鈍感力』を酷評してしまったが、どこか心残りであった。私にとり『風姿花伝』は、『五輪書』と並ぶ、英語道のバイブルである。
そして、渡辺氏も、それを人生の指針として愛読してきたという。
奇しき因縁である。同氏は「秘すれば花」をどう解説してくれるのか。
「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」
秘することによって、花の美しさは一段と映える。
なんという逆説か。深夜に咲く花が美しいわけはない。あからさまに何ごとも表に出さず、控え目にしておくほうが、花の美しさは増す、といえば、万人が納得するが、渡辺氏は、さらに深奥に迫っている。
「そもそも一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用がある故なり」
氏は、この家(一座)という言葉に注目した。
秘伝となるものを我が家(一座)に残し、その秘密を知っているという気配さえも、他人に見せてはならない。
それが世阿弥のいう「生涯の主になる花」だ。
さすが、渡辺氏の分析は冴えている。
…… 当時の観阿弥や観世座にとっては、日々戦いの連続であり、それに勝ち抜き、生き残ることが至上命令であった。「秘すれば花」は、その過酷な戦を生き抜くための、最大の戦略でもあった。(P.257)
たしかに、当時の世襲制度では、家の保持が第一義とされていた。
家、家にあらず、次ぐをもて家とす。
人、人にあらず、知るをもて人とす。
これが妙花の究むるところと世阿弥は言うが、英語で考えればもっとわかりやすくなる。houseが続けば、そこにemotion(情)が交わり、homeになる。
胎児であるitが生まれてhumanとなり、知り合いになって、personとなる。
人の道を知っているのが人間だ、と渡辺氏は解釈する。世阿弥は<道>という言葉を使っていないが、<続くこと>が、そのまま伝統(みち)だと定義すれば、私と波長が合う。
私は英語道の秘≠ニいう言葉を多用する(出版社の依頼もあり)ので、「秘が秘でなくなる」と言われることがある。しかし、よく書き、語ることは、よく隠すことと同義で、肝腎なことは、あくまで「口伝」にとどめている。
|