アメリカ大使館で同時通訳の修行を積んでいた頃、唯一の息抜きは、浅草で仁侠映画を観ることであった。
あれから35年経った。同時通訳の師・西山千の喪に服している今、久しぶりに、岩下志麻が演じる『赫い絆』(極妻シリーズ)を観ることにした。
当時は、高倉健や、鶴田浩二といった三島由紀夫好みの男優が、男のロマンを掻き立ててくれたが、今ではそういう義理人情物は、逞しい女優により演じられるようになってきた。
時代は変り、私が憧れる俳優が岩下志麻に変わってしまった。ちょっぴり淋しいが、かつての気概のある男たちを女たちが仮面をつけて舞い踊ってくれるところに独得な味わいを感じるのである。
だれが演じてもいいが、とくに私好みの岩下志麻が演じる役回りには、どこかに<家>がある。
家 ―― 赤い糸が青い糸と結びつく磁場である。
同族の赤い血の結合だけでは閉塞感と、近親憎悪で窒息しそうになる。そこで、家そのもの、そして家風を守るための青い血のインプットが要る。
岩下志麻は、極道の血を引く娘を演じる。
赤い糸とはいえ、女系だから青い糸の組を引き継ぐわけにはいかない。ある男と縁が結ばれたがために、その婿が組頭となって、めでたく家(組)を継ぐことになる。
ところが、二代目が、組頭として家系を継ぐ器≠ナはないと判明した場合は悲劇だ。当然、世間の笑い者になる。青い糸(組)を守るためには、いかに不甲斐なくとも、世間に対し、極道の夫の義理(カオ)を立てるのが妻の役目である。
極道の父からそのような教育を受けてきた。岩下志麻は、青い糸を死守せんとする健気な極妻を演じる。
島を守るのが岩下志麻だから、この際、シマさんと呼ばせて頂こう。
重い運命を背負ったシマさんは、何の因果か軽い夫のために耐え忍ぶ。
シマさんの入獄(お務めという)中に、極道の夫に女ができた。姉御役に憧れた水商売の女の野心と、オレは女房の紐(ひも)ではないというエゴとが結びついたから厄介だ。
この時シマさんは、堅気になり、妻の座を女に譲る(こういう腹のある行為は、かつては男の役回りであった)。青い糸を守る一心からとはいえ、よくそこまで屈辱に耐えたものだ。だから、極妻たちの間で英雄(ヒロイン)になる。
私見ながら、女が女に惚れられるのが、本物の女ではないか。私も男を男にさせる、姉御タイプが好きだ。
組は村であり、島であり、公(青い糸)である。
だから、個人の意地といった私心を捨てて、公心に従う。そもそも組長には逆らえないものだ ―― たとえヨコ糸であっても。
とはいえ、そこには、赤い糸(タテ糸)の絆を切ってはならないという伝統的なミチがある。
極道の道(どう)は成文化できても、人の道(みち)は不文律のままだ。
ドウ(カタチ)は、ミチ(ココロ)を守るものである。
青は赤を守り、赤は青を守る。そこには純然たる補完関係があり、赤と青は切り離せないものだ。
青い皇道といえども、民草を思い、祈り続ける、赤き大御心(天皇の心)が大前提になっている。その本質が家だ。孤独な死や、自殺を防ぐ磁場。そんな家を日本は失いつつある。
日本民族は、民主主義国家となった今でも、失った家に対する郷愁が、どこか心の底にある。
皇道 ―― 極道 ―― 家。三島由紀夫は、その意識の流れに「青い糸」を見たのではないか。
青い心(公)に動かされると、不思議に赤い糸(私)が疼き始め、血が騒ぎ出す。
赤 ―― 血 ―― 行。三島は青と赤の世界に憧れた。赤と青が結ばれると、対象物は立体化し、人をして、何らかの行動に走らせる。三島由紀夫の、そして王陽明の行動哲学は、ここにあったのではないか。
シマさんは、不甲斐ない夫ゆえに、組(シマ)を奪われたことを知った時、意を決して立ち上がる。
能面をつける。無表情の小面の裏で、夜叉が泣いている。
複雑な想いを能面に統一させた時、無表情は多表情を秘めることになる。
シマさんの演技に、私は花を見る。
この「花」は、欧米人の言葉で表現すれば、the “wow” factor(華要因)となる。ワウ! という奇声を誘うからだ。
とにかく、拳銃を片手に、侵略を繰り返す非道の極道たちを片っ端から射殺していく。だから痛快だ。それにしても、飛び散った深紅の血痕が、美しく感じるのはどういう錯覚なのか。
そして、青い糸を守れなった夫をも射殺する。これは正義というよりも、術を捨てても道を守るための「けじめ」であろう。
青を死守するために、敢えて対極の赤に戻ったシマさんの複雑な心中は、察するに余りある。
彼女の赤い心は、赫く燃えた ―― 学んだ。
私の英語道も極道に他ならない、と自嘲的に公言することがあるが、いかに英語という苦海を遊泳してきた身とはいえ、守らねばならない武士道の仁義と美意識は守ってきたつもりである。
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