「一切の事に、序・破・急あれば、申楽もこれ同じ。
能の風情をもて定むべし。」
序は、初めの緩やかな部分。
破からテンポが速くなる。そして、
急は、急調子のうちにクライマックスに達する。
まるでボレロ。
もともと序・破・急の法則は、中国で主に音楽の作曲に当って考えられたものだが、これが日本に伝わって、宮中の雅楽などでとり入れられた。
しかし、観阿弥は、この法則をさらに広げて、世の中一切のことも、この法則が働くと考えた。
だから、もとは序・破・急が中国生まれであっても、日本という風土で花が咲いたのだ。
応用技術は日本のお家芸だ。その証拠に、私が紘道館で開発したサッカー・ディベートにも、この序・破・急を積極的にとり入れることにした。
礼に始まり、礼に終る。
この「残心」の流れを重視し、論敵の対決を能舞台で演じさせてみたいのだ。
西洋で生まれたdebateに、道を加え、ディベート道とし、ディベートの花を咲かせようとする発想は、日本でしか生まれないのではないか。
日本に生まれてよかった。 I’m proud to be Japanese.
さて、戻る。なぜ初めに礼か。
能には始まりも終わりもない。
いつの間にか始まって、いつの間にか終わっている。
幕開けというbeginning(1)がなく、0から始まり0に終わるのだ。
だからそこに、人為の及ばぬ(神々しいと換言してもいい)磁力を感じるのだろう。
申楽はもともと、神を祭る芸能として生まれたものだから、初めに神を崇め祭る祝言能がおこなわれるのが常道であった(『秘すれば花』P.146)と渡辺淳一氏は述べる。
だから、「英語道 ―― 秘すれば花−序」では、神を崇める心境に入った。渡辺淳一氏の作品批判(3月25日のブログ)に対し、氏の荒ぶられたであろう心情を慮り、緩やかなテンポで書き始めた。
このような調子で、ディベーター(石)が立論に入れば、論客に対する敬意を失することもなく、最後は、水のディベーターの鎮魂で円く納まるのではないだろうか。
武道における、「礼に始まり、礼に終る」という作法は、能を含め、諸武芸に通じるルールではないだろうか。
さて、徐々にテンポを速めて、能を英語道に結びつけていこう。
…「破−その2」に続く。
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