前回の「破」に続く。
「又事に因りて、濃き薄きを知るべし」
英語も物真似から始まる。
「日本人は日本人英語でいいじゃないか」と自己弁護して、ネイティヴ英語を真剣に真似する稽古を軽んじてはならない。
だが同じ真似でも、英語でいうコピー・キャットになってはいけない。
個性はどこかに残しておくべきだ。
「濃き薄きを知れ」、とはそういうことだ。
「稽古は強かれ、情識は無かれ」
努力は懸命に、しかし自己勝手では効果がない。情識とは、強情とか頑固といった、凡人のもつ迷いの心のことである。いくら英語が巧くなっても、地位があがっても、独善に陥ってはいけないのだ。
日本人英語はそれでいい。しかし、ネイティヴ英語をしゃべる帰国子女が許せないと、妬みを顕わにするのは、慎むべき情識だ。
ただ物真似とはいっても、大道芸人のような物真似であっては困る。
ネイティヴらしさ(私は仕事上、ネイティヴを演じるが)を競うことは無意味である。
宮本武蔵は、こういう外見美やカッコ良さを嫌った。
やはり、「秘すれば花」である。
私の英語も、書かれた英語と話された英語をほぼ10%(厳密には9%)にとどめ、90%を秘すべき情報として使わぬことにしている。
とはいうものの、生活に追われたり、なんらかの事件で心が揺れると、目立とうとしたくなる。その衝動がアウトプットを増大させる。心の軸がぶれ、見苦しくなる。9%対91%の比率が崩れるからだ。
37才でNHKテレビに出演した時は、時分(じぶん)の花(temporary flower)で、真の花(real flower)ではなかった。
だから、萎むのも早かった。
…「破−その3」へ続く。
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