インドという土壌が、アグネスをシスター・テレサに、そしてマザー・テレサに開花させたのではないか。
「あのね、シスター、お金をください」
「私はお金は持っていないの。でも、お薬ならあるわ。あなたの手、痛そうね。塗ってあげましょうね」
シスター・テレサは、女の子の手を取ろうとしました。すると、
「いらない!」
びっくりするほどすばやさで、女の子は手をひっこめました。
「弟は、もっとひどいの。だから、弟にお薬をつけてちょうだい」
シスター・テレサは、はっと胸をつかれました。
(こんなに小さいのに、自分よりも先に、弟のことを考えているなんて、なんてあなたはやさしい子なの)(『マザー・テレサ』P.42)
マザー・テレサを開花させたのは、インドの貧民窟ではなかったか。
この児童向きの伝記は、核心を突いている。
「世のなかの人は、あまっているもの、自分はなくても困らないものを、寄付しがちです。でも、それは本当の愛ではないの。本当の愛をだれかにあげるときには、自分も傷つくものです。痛みがあるものです」(『マザー・テレサ』P.105)
英訳すれば、Love hurts. になろう。
Truth hurts. と同じ類だ。
前者は、人生道。
後者は、ディベート道。
今、マザー・テレサがSaint Teresa(聖女・テレサ)の列聖に加えられるか、カトリック教内で行われるディベートに注目している。
肯定側は、彼女が実現した奇蹟を立証し、否定側は、それが奇蹟でないことを反証しなければならない。
もし、マザー・テレサが、神の存在を疑う手紙を証拠として呈示されれば、肯定側は不利になる。
セイント・テレサは、自分は偽善者ではと疑い始めたというからビッグ・ニュースだ。 聖ではなく俗? 信仰の危機。
彼女の数々のレターの英文をインターネットで読んで、ますます人間的に惹かれた。神の無謬性を盲信したのではなく、欠陥だらけの人間イエスに失望することもあったのだ。
こう考えると、師の無謬性を信じなかった私にも救いがある。
70代のマザー・テレサは、世界を飛び回った。
その時、残った機内食を捨てる前に、お腹を空かしているスラムの子供たちに食べさせたいから、残りものをちょうだいと、航空会社の事務所へ出向き、懇願される。
あの白と青のサリー姿で。
マザー・テレサが、カルカッタだけでなく、デリーやボンベイの空港でも、機内食をもらいにいく姿が目撃されているという。その姿が目にちらつく。
マザー・テレサは、ノーベル平和賞、そして聖女という肩書きなど欲しくない。男女、宗教の差を超越した、無色の世界を翔んでいる。
なんで世の中はこんなに不公平なのだろうと、神を疑いたくもなると、日記に書こうと、それが発覚し、saint-foodを失おうと、そんなことはちっともお構いなし。
(この機内食を一刻も早く、餓死寸前の子供たちのところへ運びたい。イエスさま、あなたも手伝って下さい)
彼女の父なる神を疑う手紙。
私は救われた。彼女こそ聖女。
If she isn’t, who is!
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