秘花を英訳すればeroticism。
敢えて英語で書いた。
かたかなでエロチシズムと書けば、「色情傾向」にまで意味が翻ってしまうからだ。
翻訳とは、そういうものであろう。しかし、私はどうしても英語は原書で読みたくなる。
その究極の意味は、翻訳より意訳 ―― そしてその意味の流れを汲んで通訳した方が、隠された意図(the message)が伝わりやすいのではと考えてしまう。
プロ通訳者として、私は米大使館で仕込まれた。仮想敵は、いつの間にか翻訳者になった。
読み手にとり、翻訳者は神様。そして、聞き手にとり、通訳者は神様 ―― とくに同時通訳者は。
翻訳は眼、通訳は耳。
ただそれだけの相違ではない。意味論をめぐって、双方の間に、微かな葛藤があり、そこに宿命的なライバル意識がある。
たとえ文脈を意識して、秘花をエロチシズムと訳したところで、より辞書に忠実な翻訳者の方から苦情が出そうだ。
アメリカ大使館で同時通訳の修業をしていたころ、プロ連中(とくにサイマル)、そして西山名人から、「言葉を捨てて、意味を追うのです」との忠告を受けたものだ。
言葉を追えば、同時通訳などできない。時間と闘っているプロに、辞書に甘える贅沢など許されようはずがない。
そこに、翻訳者と違って、通訳 ―― 師・西山千より「者」が加えられたが ―― の悲哀がある。
「青い山」は、咄嗟に英訳できないのだ。近くは、green、遠くはblue、更に彼方になればgrey。青イコールブルーではないのだ。通訳者はいつもブルーな気持ちだ。
言葉の裏に隠れたシンボルを追うとは、目をつむってイメージすることでもある。
シンボルはlook(こちらから観る)すれば判る ―― 誤解も生じるが。
イメージは、目をつむっても、その言葉のシンボルがsee(あちらから見えてくる)できるものだ。
「通訳は機械じゃない」を翻訳すれば、Interpreters aren’t machines. となろうが、通訳者 ―― 西山千級になれば、と限定しておこう ―― は、furniture (家具)に変る。”I’m not a piece of furniture.” は、かなり私憤の強い表現だ。
話者が、「オレは家具と言っているのではない。マシーンと言っているのだ」と怒っても、通訳者は、その意味の「流れ」を汲んで訳したのだと開き直れる。しかも抗弁の余地はある。大概の場合、それで許される。一瞬の話芸では訂正が利かないからだ。
それがゆえに、通訳者の地位は、リスキーな職業であるにも拘らず、かつて通弁と呼ばれた頃から社会的地位は、翻訳者に較べて遥かに低いとされる。語られた言葉は残らない。引用すらもされない。
そういう空気に逆らって、通訳者の地位を確立しなければ、浮ばれないのでは、と悶々とされていたのが我師・西山千であった。
オレがやらなければ誰がやるのだ、というdesperate(崖っぷちに立った)な心境で師は闘われた。
当時その気持ちが判らなかった。私は青かった(I was green.)。
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