師・西山千名人のイメージ論はこうなる。
たとえば翻訳者がfurnitureを「家具」と訳したとしよう。読者はそれを「家に備え付けられた道具類」とイメージするだろう。しかし通訳者は、文脈上もっと「流れ」を重視するから、時には大きく飛躍する。
「(通訳は、機械のような)便利屋さんじゃないんだ」と通訳するかもしれない。イメージにウエイトを置けばリスキーになる。
話者の表情を見ながら、そして言葉の表現から流れる意味を汲みながら、大和言葉調に通訳されていた師の同時通訳は、まるで神業であった。
日本人が抱くfurnitureのイメージは、動かないものであるが、引越し慣れしているアメリカ人のそれは、しょっちゅう動かされるものである。だから、日本人が「機械じゃないんだ」と言えば、機械の英訳はfurnitureに変っていたりする ―― もちろん文脈によって違うが。
同時通訳が言葉を消す芸術というのはそういう意味だ。
翻訳者は、通訳されたトランスクリプションを丹念にチェックする。それは、拷問に近かった。今思い出しても、米国大使館での鬼の特訓は悪夢であった。
西山名人にとり、英語も日本語もどちらも母国語であるから、言葉のシンボル、そして意味するところのイメージが瞬間に、文化的に転換されると、凡人の耳にはついていけない。
日本語も英語も、私の耳には、どちらも音楽のように響く。
私もいつの間にか、西山流派を継ぐようになってから、師の技を盗むようになり、今も師の真似事をしている。
つい、「わかりません。すみません、いま英語で考えていますから」と、答えてしまう。気障な野郎だとの反感を買うことは覚悟のうえだ。
私は今も、亡き師の影を踏まないように気を配り、しかも御百度を踏む思いで、師から学んだ教訓を実践し続けている。
師の風姿を伝えんとペンを執ったが、なかなか進まない。これまで自分に都合のいいように書いてきた、文筆家のはしくれであった私が、初めて、亡き師のため、そして世のため通訳者の道を書こうと、「公け」を意識し始めた頃から、私の頭も錯乱し始めた。
青の世界に入った人は、英霊と同じような、妖しげな磁力(eroticism)を持つものだ。日本は死者の国だ。三島由紀夫の霊は永久磁石化してしまった。
秘花の訳について書こうとしたが、まえがきがここまで長くなるというのも、錯乱状態の証左といえよう。
秘花は究極のエロチシズム ― その(3)へ続く
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