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英語道 ―― 異種格闘技史 〜その1〜

人生は異種格闘技である。武道である。
スポーツやゲームはルールに縛られる。
その点、武道はルールから解放されたところに存在する。

格闘者同士の呼吸の盗み合い≠明文化するシステムなどあろうか。
人生での名勝負は、一瞬のすれ違いの「間」で決まるものなのだ。
それに類するものが、たとえあったとしても、「明鏡止水」の如く、禅的で詩的なものでしかない。

相手の呼吸を外したり、乱したり、意表を突くことにより、相手の重心≠抑え、制することは、たとえ武道の秘伝として通用しても、ルールとしては書き留め難いものである。
柔道の三船久蔵名人は、「柔よく剛を和す」と、敢えて和(やわ)すという、やまと言葉を用いた。

神道でいう「言向け和(やわ)す」という言い回しは、私が唱導しているディベート道(究論道とも)の極意であるが、これも客観的判断が困難ゆえ、検定試験に至らない。
忍者の検定試験が存在しない理由でもある。

こういう絶対的な主観が支配する武道の世界を広げるには、競技化、国際化という客観の世界に入らなければならない。
武道は「幽」であるが、スポーツは「顕」である。

スポーツは、メダルの数、メディア露出度、年俸額と、数量的にランクが決定される。
目立てば目立つほど、カリスマ性が認められるのがスポーツや芸能の世界だが、ラベルを気にする巨大な電池ゆえに世間評が気になり、常に充電が必要である。

ところが、武道でいうカリスマ性とは、秘すれば秘するほど、吸い寄せられる磁石のことであって、充電器も、コーチのようなお目付け役も要らない。
あくまで自己責任のルールで動く。

英語道の創始者としての私は、そういう武道の世界に憧れた。
冒頭から堅苦しい話になったが、次回からは、私がいかに国内で斬れる英語をモノにしたか、その他流試合の数々を披露してみたい。

その2へつづく。

2008年1月15日
紘道館館長 松本道弘