皇民化教育、共産主義化教育そしてアメリカ文明で学んだヒューマニズム(人間主義)を体験し、人間こそが特権的な存在であるという考えに疑問を持った哲学者、波多野一郎。南方熊楠のウォッチャーでもある中沢新一は、この波多野一郎という稀有の哲学者の心の琴線に触れた途端に、自己を発見している。しかも書を通じて。
人は、自分のことを書いている間は、自分のことがわからない。
人は、自分以外の人のことを書き始めて、初めて自己を発見する。
私は、亡き師匠のことを書き始めた(『同時通訳の名人――西山千』角川学芸出版刊予定)時に初めて、自己を発見することができた。カマキリの研究を始め、師と直弟子の私との関係が、ますます鮮明になってきた。
人と人との邂逅は、本、あるいはブログを通じてでも思想の閃光を走らせる。動いている生命体から学べないことなどあろうか。だから昆虫からも学べる。セレンディピティーは死者からも学ぶ。
「……イカ達が人間共にしゃべることができたら、何というだろう?
そうしたら、斯(こ)ういい出すんじゃないかナ―。「おい!! 大助君!! どうして俺達を不注意にも床に落としたりなんかして、俺達を差別待遇するのかね? 俺達が死んだのも立派な商品となるためなんだ。そして、俺達は人間様の食卓の立派なお皿の上にのっかって、立派なステーキになるために死んだのだ。俺達の存在を無視しないでくれよ、俺達を忘れないでくれ!」 大助の空想の中で、イカ達が大助に向って、しゃべりはじめました。「俺達の存在に一体、何の意味があるのだい?」…」(集英社新書『イカの哲学』中沢新一・波多野一郎 P54)
最後の問いはイカのものでなく、大助、いや哲学者波多野一郎の内なる問いだ。
What's the meaning of my life?
大助は感じる。「人間世界においては、思想の相違が戦争の原因になるのだ!」
思想、なんとかイズム、それが人為的に固められた組織、宗教が人を殺す。
その(3)に続く |