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論道とソクラテス対話のすすめ 〜その2〜

プロタゴラス流派の影響を受けた日本の学生達も、相手を早口でカッコよく論破し、学校の知名度をあげようとスキルの上達にヤッキとなる。ディベートは、相手を論破する技術でしかなく、道=i真理の追及)なんかではないという学徒は、いかに輝かしい学歴であろうと、海外生活が長かろうと、ハートに通じるものがないから、もう一つ説得力がない。

「術」が全てで、「道」が邪道という人は、こう考える。
剣は人を斬る武器(大前提):
斬られて死んだ人は枚挙にいとまがない(小前提):
したがって、活人剣はない(結論)

こんな単純な三段論法でしか思考できないとは情けない。剣にも茶にも生花にも英語学習にも道はない ―― ディベート(論)に道があろうはずがないとうそぶく、著名なディベートの達人がいる。

こういう人が必要とするのが、ソクラテスが説く啓蒙的なディベートなのだ。別に真理の追及のためのディベート道というふうに「道」という言葉を使わなくても、通じたはずだ。ところが、論争を勝つか負けるかという次元でとらえる人(日本人に多い)には、ディベートは技術だけでなく、生きざまを向上させる<道>であるのだと強調しなければならない。

悲しいことだ。ディベーターがとるべき姿としての<道>を省き、論争術だけに生甲斐を見いだす人を便宜上ディベートの<術者>と名づけたばかりに、誤解され、逆恨みを買ってしまった。

術と道は、磁石の両極のように、どちらも大切なのに、一方が正しい、一方が間違いと論断する傾向は、アメリカ人好みのディベーター(その影響を受けた多くのESSディベーター)に多い。

アメリカのディベート・コンテスト・コーチたちと話をしたが、ディベートが真理の追及に役立つ、と私が言った時に「意味不明だ。ディベートは勝敗を決める手段。お互いが永遠に交わらないゲームであっていい。差は技術のみ」と答えられたので、言葉を失ってしまった。

その3につづく

 

2008年12月12日
紘道館館長 松本道弘