ナニワ英語道では、つれづれなるまま、なぜ私がソクラテス対話に目覚めたのか、その過程を書き綴った。こちらの館長ブログでは、小波(ripples)ではなく、中波(wavesかswells)のノリで、暫くソクラテス対話について掘り下げてみたい。
血液型論議で疲れたので一服したい。
私は火がつくとめったに消えないA型人間なので、粘着性が強い。しぶといたちだ。このまま書き続ければ、大波から津波になり、一冊の本になってしまいそうだ。
そうなると、ブログとしての機能から逸脱してしまう。それがこわいのだ。だから、頭を冷やし、自らにも語りかけるつもりで、ソクラテス対話についてペンを進めることにする。
ソクラテス対話の基本は、「自己を知る」ことである。
Know thyself. いかに自分が無知であるかを知ること。
これがディベートの目的であるなら、そもそも「道」という言葉など要らない。
ところが、日本人はとくに、debateを討論と訳したとたん、勝敗を意識してしまうから、「術」に対して、「道」という余計な接尾語をくっつけざるを得なくなる。
そんな競争意識に、意地とか面目という厄介な心理的要素が加わってくる。
負けるわけにはいかない。ここまではわかる。しかし、そのために、知らないことでも知ったふりをするとか、詭弁で相手を欺くという技術(スキル)が横行することになれば、マイナス面が出てくる。
アメリカ型のディベートがそれだ。大統領選でのディベートがgo negative(個人攻撃)に落ち、ドロドロ(down and dirty)になる。だから私は敢えて、「道」をくっつけるのだ。どうしても日本語に訳すとすれば、今のところディベート道は「究論道」が一番近い。
オウム(今はアレフ)のT氏が悪用したアメリカ型のディベート術がそれだ。
それに対し、「詭弁を見破るのが論理であり、ディベートだ。だから、揚げ足とりなどせず正論で闘え」と言い続けた。
知らないことは知らないと言い、決して隠すな。Intellectual honestyを貫け、と喝破した。詭弁でもいい、見つからなかったら勝つんだ、というESSディベートと正面衝突した。
私には勇気のあふるる発言だった。ESSを敵にしたこともあった。
その5につづく
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