私は猫が好きだ。猫が私のことをどう思おうと知ったことではない。猫好き人間には、そういうマイペースな猫が愛おしくてしかたがない。本人が気儘だからなのだろう。
村上春樹も猫が大好きだ。彼は猫そのものという気がする。猫と心中しかねない。猫好きにはその心境が分かる。
三島由紀夫も猫が大好きだった。関の孫六という名刀に溺愛して、刀と共に殉死した。『三島由紀夫は復活する』を書いた小室直樹も猫なしにアイデアが浮ばない、猫好き学仙だ。
論理的な論客は、猫の超論理に屈服するのだろうか。とにかく、猫には、「なぜ〜なぜならば」「もしも〜なら〜になる」という直線的なロジックは通用しない。
吉川英治も池波正太郎も猫が好きだった。彼らの学歴コンプレックスも、側にいて全く気にしない猫で癒されたのだろう。谷崎潤一郎も猫に溺れた。猫が彼を耽美派に育てたのかもしれない。ヘミングウエイという骨っぽい文豪も、ボブ・サップというプロレスラーも、猫をこよなく愛した。
擁護したくなる、保護的愛(プロテクティヴ・ラヴ)の類だろうか。天才的博物学者・南方熊楠は、ネコグスと呼ばれるほど、猫を盲目的に愛した。
猫好きな人は、間違いなくマイペース。だからマイペースの猫が許せるのであろう。猫は「そこにいない存在」と誰かが表現したが、だから「好き」と、だから「嫌い」と二派に分かれてしまう。
犬好きな人は、「そこにいる存在」を愛する。だから、政治好きな人に犬好きは多い。部下を可愛がる。過去の人間には振り向かない。今、ここにいるモノしか興味はない。猫のような部下を率いていては、政治活動はできない。
石原慎太郎は犬好き。よーく分かる。総理の座が欲しい、ある女性政治家は、自分の飼っている犬に「ソウリ」と名付けたという。人間より権力を愛する人は犬を好む。
猫好きは、どうしても反権力になる。
全世界で共通する理想的なディベートの論題を一つ選ぶとするなら、私は「犬と猫とでは、どちらがペットとしてふさわしいか」というテーマを選ぶ。
精神分析医も小説家も、この種の知的ゲームを好む。犬好き(英語ではドッグ・パーソン)と聞けば、この人は、タテの系列を好む人ではないかと推論する。
犬タイプの石原慎太郎は、女に溺愛するタイプではない。女に対する屈折した愛もない。女に対する愛憎併存(アンビバレンス)もない。ただ自分自身が好きで好きでたまらない人間だろう。だから自分を認めてくれる犬が大好きなのだ。派手だがどこか孤独な人に犬好きが多い。
勿論、例外はある。しかし、物書きである私の経験からすれば、往々にして猫好き人間には、サドマゾヒストが多い。
ここまで愛しているのにと裏切られた思いから、急に許せなくなり、猫をカン袋に押し込んで、いじめたくなる。
しかし、そこまで恩知らずで非情な猫に、限りなき愛情を注ぐ――これが無条件の愛…なんちゃって。なんという偽善!
それで快感を覚えるなら、その人はマゾヒスト。その人は猫を愛しているのではなくて、猫に恋をしているのだろう。だから、その猫に逃げられても(餌を与えている間はまずないが)、また他の可愛い仔猫を探す。それは愛ではない。恋愛である。
恋愛は移ろいやすい状態であって、愛は行為であり、そこに責任が生じる。死なれて、極度に落ち込んだ時に、失った愛の大きさが証明される。私はもう犬を飼わない。猫も愛すれば裏切られる。
それでもいいじゃないか、悲しむのも人情なんだ、と猫を一方的に愛し続ける猫好きは、もうすでにサドマゾヒスト。
猫は近寄った人間をサドマゾヒストに化身させる。猫は磁石のようなもので、こちらから近寄り、求めたくなる。猫は人間を雄にも雌にも変える。
猫はゼロ磁場であり、人間の磁石を狂わせることもある。悪いことではない。家庭内の不和も一匹の猫が円く納めるといわれている。別に、納めようとはしていない。自然体。ただそこにいる。そしてそこにいない。
ところが何かを求める時に、すり寄って来る。ノドをゴロゴロ鳴らす。腹が空いたら、食べる。煮干があればそれだけで満足。生きていけるという事実に別に深い意味はない。哲学などあろうはずがない。哲学論議に耽り、論敵を論破して満悦している人間学者たちを嘲笑することもない。
ただそこにいる。そしていない。
猫とはまさに禅そのものだ。猫は教えようとはしないのに、人は何かを教わる。猫は禅坊主、いや禅そのものだ。
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