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日記道 〜 その1〜

日本人はなんでも「道」に結びつける癖がある、という人がいる。それは難癖というものである。日本人にとり、何かを続けることは「行」なのであり、それを続けることは「道」なのだ。

たとえ宗教であっても、日本人はそこに「行」があるか、「道」に外れていないか、無意識のうちに検証しているのである。宗教リーダーが唱えることは美しい。多分間違ってなどはいない。どの企業でもそうだ。企業理念は美しい。

しかし世間はそんな文言だけにごまかされない。「行」が伴っているかどうか、「道」に外れていないかどうか、ちゃんと見ている。どんな組織体でも「道」というmoral compass(道徳的羅針盤)から外れると崩れる。

この「道」のことを、欧米人ならprinciple(原理・原則)と訳すだろう。
たしかにprincipleがなければ、techniqueは機能しない。

ところが、日本人の「道」はむしろ鏡(mirror)に近い。ISSという会議通訳訓練会社が、ホーム・ページで通訳道という言葉を使っている。通訳道とは、通訳の理を追求する道と巧みに定義している。道は続くものだ。だから、そこに「行」が感じられる。

もし継続できず、途中でギブアップしても咎められることはない。道には、そんな法律はない。ただし、道の下に参集した同志の中には、掟が生まれる。当然である。どんな組織でも運営していくためにはルールがいる。

法律は表の社会。その裏の組織には掟、そしてタブーが存在する。では、日記を書くという行為に罰則が伴うだろうか。
否。なぜか。日記を書き続ける人と日記の間には、見えざる絆≠ェ生じる。

裏切ることができない。もし裏切れば良心の呵責が生じる。Guilt(罰)意識が生まれるからだ。Guiltは独りで感じるものだ。しかし、そこへ他人が入ってくると、shame(恥)が生じる。日記の眼を意識し始める。日記が鏡になり始めた証拠である。

日記を鏡とすれば、曇らせてはならない。人の悪口を言ったり、愚痴ばかり書いたり、好きな日に好きなことだけしか書かない人に対しては、日記の心も曇ってくる。

その2につづく

2009年2月13日
紘道館館長 松本道弘