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日記道 〜 その2〜

「この空気の読めない人間め!」
日記を書き始めた当初は、そんな日記の愚痴など聞こえない。聞こえるはずがない。
書き手が、日記に感情移入していないからだ。

ただ、日記を事実の記録だとか、自分の気持ちを書きなぐるためというセルフィッシュな動機であれば、日記にもその魂胆は見抜かれる。
(どうせ都合が悪くなれば、焼き捨てるのだろう)

たしかにそういう人が多い。いかにカラフルな異性体験を赤裸々に書き綴っていても、新しく本命(the one)が現れると、いとも簡単に捨ててしまう。そういう人は、人間関係においても、どこか無責任なところがある。

日記を捨ててはならない。できれば、自由日記より当用日記で毎日書く。それが「行」になる。捨てないという信念が日記に感じられないなら、日記の協力は得られない。都合のために書く日記は、日記術である。日記なんかあくまでカネで買える記録帳なのだ、という考えだ。

あくまで主体は人間である。日記は人間の道具であり、奴隷であり、人間さまに従属するものなのだ。英語の勉強にしても同じ。英語なんて単なる言語、利用するためにある。社会で出世する、異性にもてる、外国人と対等に交際できる、とにかくカッコいい。

英語に対する愛が醒めれば、他の言語に浮気すればいい。いつでもポイと捨てられる。英語も日記と同じように、主人である人間さまにつかえる道具ないしは奴隷である。これが「術」の強さであり、同時に弱さである。

「弱さ」とは何か。
道具であるはずの日記なり英語なりから学ぶことを期待していないからである。

その3につづく

 

2009年2月17日
紘道館館長 松本道弘