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日記道 〜 その3〜

もし日記を道とすれば、日記は鏡なのだ。じーっと見ている。道に外れたことや、人との争いで敗れたくやしさも、日記に告白しなければならない。日記に嘘はつけないのだ。自己を偽ることにguiltを感じ、それが日記の眼を通して明らかにされると、shameに変る。

日記は続けよ。日記は捨てるな。それが「行」なのだ。行を怠れば日記に捨てられるのだ。日記は克己。日記は自己修業になる。人間が鍛えられる。人は変る。学友も変る。先生も変る。ガールフレンドもボーイフレンドも変る。周囲がコロコロ変る。しかし、日記は変らない。じっとあなたをながめている。何も言わずに。

この沈黙の重みが感じられると、日記にも心が通っている。アニミズムの世界だ。
手塚治虫のマンガに惚れたのは、そこに「心」があったからだ。
ロボットが、「ぼく人間だよね」と問いかける。小学生の私はそこで涙ぐむ。

日記も同じように私に問いかける。「ぼく人間だよね。捨てないでね」
捨てられるはずがない。13歳の後半に一念発起して書き始めた日記は今も書いている。日記は私にとりitであった。それがyouに変っている。そして今はweなのだ。

We grow together. 共に育っている。ソクラテスは、「友と一緒に成長しろ」というが、私にとり日記はソクラテス師匠でもある。ソクラテスは言う。「汝を知れ!」と。
日記道の信奉者だからその声が聞こえるのだ。日記術の人には聞こえない。

その方がロジカルである。日記道は、ロジカルかイロジカルではなく、論理以前(プリロジカル)なのだ。アニミズムの世界は、古神道の世界と同じで、神ながらの道だ。神が認める弥栄の道だ。始めもなければ終わりもない。永遠の今(eternal now)なのだ。

日記を書くことは、座禅と同じだ。毎日ただ日記を書く。只管日記――ひたすら日記を書き続ける――こそが日記道である。読み返すと、赤心する。気取っていることなどすぐわかる。できれば読みたくない。つらい。しかしそれが人生ではないか。

その時その時の言葉、行動が記録されているのだ。ユダヤ人は、書かれたものは、すべて神によって目撃されると考える。その時点においては、真実なのだ。夜中に書いた絶縁状も、翌朝考え直し、破るという経験もあるだろう。

人の心などそれほど脆く、人の生命と同じように儚いものだ。人の記憶もあやふやなもので、後日いくらでも都合のいいように解釈してしまうものだ。日記はそれを許さない。

 

 

2009年2月20日
紘道館館長 松本道弘