最近観た映画。字幕が「だれもいません」。どんな英語を使っているのかと思って、この英語武蔵、一瞬耳を傾けた。Just us.(二人だけ)であった。字幕の訳は正しい。
もし「だれもいない」という場合に、There isn’t anybody. と答えたら、「君がいるじゃないか」とネイティヴなら問う。だから、ロジックを入れると、「私を除いて」となる。正解はしたがって、Just me.(一人なら)。
こういうロジックは日本語だけしか話せない人にはピンとこない。英語を学んで楽しいことは、グローバル思考を身につけることができることだ。
日本人学者が、海外で、「日本人というのは困ったもので……」と自虐的に語り始めると、私は悲しくなる。ロジックが通らない。その話者自身が日本人という集合の中に含まれているのか、含まれていないのか、はっきりしないからだ。
「男というものは」も、Speaking for myself, men are … とか、Men, by and large, とぼかすべきだろう。ぼかしのテクニックは、日本語の専売特許ではない。英語にもいろいろある。いや英語の方が多いかも(if I may)。
そう、ifで限定するのだ。ボイエ・ディメンテに、「淋しかったら、猫を飼え」(If you’re lonely, get a cat.)と、ifを使った時、相手もifで答えた。If you’re a cat person.(猫好き人間ならね)と。すべての人間が猫好きとは限らない。a dog personもいるはずだ。
ある人に勧められて、ジェームズ・ブラウンをスタバーで買って聴いた。GとWの多いホンネのブルースだ。母音の「ウ」とitの使用法が意味深(deep,いやsexy)だ。マライヤ・キャリーが歌で使うf, h, l語が少ない。
黒人歌手は、日本でいう演歌のdeep-blueな世界だ。love, like, light, Lord(主)など、L語を好む一神教の言葉や思考は明る過ぎる。もっともこの明るさは、shadowをつくる。
Light and Shadow。周囲をdarkにさせるのだ。
そう、D-word。最近観た映画『Doubt』も、神と悪魔、信と疑のディープな対決であった。メリル・ストリープが美事、悪魔(Satan)役を演じ切り、神父を追放する。しかし、後にDoubt(suspicious mind)の行き過ぎを反省して涙ぐむ。
人の心の中には、ハトのようにinnocentな気持と、相反するヘビのように疑い深い(suspicious)心がある。イエス・キリストは、この両方を失うなと戒める。
一生悩みたまえ、ということか。
キリスト教信者だって、「許す」といいながら、「許せぬ」という相反する心情がどこかにあるはずだ。
その2につづく
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