英語道七段という肩書きを捨て、零(ゼロ)段とした。
昨年の「ヒストリー・チャンネル」で私が武士道を語る歴史家として紹介されると知ってからである。
ほとんど打ち合わせなく、「出たとこ勝負」で登場するということで、この英語武蔵も緊張しながらも奮い立った。
いずれ柔道の神様の三船久蔵十段のような名人になりたいという夢も捨てた。
この悲壮な決意も、それはわかりきったこと、段を捨てる方が私にとり理想の姿である、と以前から私に苦言を呈してくれた男がいた。
浜岡勤氏(紘道館塾頭)という私の女房役である。
「先生には最早“段”は要りません」と、七段昇段を歓迎しなかった。
このことが原因で、大喧嘩になった。
この男も、ラサールから東大、そして富士フィルムと、エリート・コースを通ってきた秀才のモデルで、そのうえに論客でもあるから、私との激突(兄弟ゲンカと呼ばれた)は、紘道館の歴史で最大の事件となった。
アメリカのある塾頭から手紙が届いた。
「松本館長、浜岡さんは、紘道館(当時弘道館)にとり、重要な影の役者ですから、破門にしないでください」と。
浜岡氏の人徳というか、氏の人気は全く衰えていない。二人の激突がこじれ、共倒れになれば、今の紘道館はなかったことだろう。当時の吉村塾頭が血相を変えて、私を諌めようとした。
自分は師に逆らって、破門になってもいいが、浜岡さんだけは、と。まるで葉隠の武士道。私は負けた。その浜岡氏がカムバックして、今の紘道館の塾頭を勤め、女・紘道館、そして名古屋ICEEの裏方を勤めてくれている。
私はもう闘わない――自分を相手にする以外は――。ゼロ段にしたら身が軽くなった。
その2につづく
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