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「間」は英訳できるか A |
死。死とは時間と空間を結ぶ「間」そのものの消滅ではなかろうか。
肉眼では見えないblack holeのような不気味な存在なのか。舞踊の師範は「間」を「踊りと踊りの間」とは捉えず、間と間の中に「踊り」がある、と絶妙な定義をされる。「間」の方がパフォーマンスよりも大切なのだ。人の心を、そして読者の心を融かすのは、文章そのものというより文と文のあいだにある「間」ではないか。速読化とは「間」を読む達人でもある。The art of reading between linesのことだ。息抜き(bresther)としての「間」とは、息吹く空間のことである。近著「中国人・韓国人・アメリカ人の言い分を論破する方法」(講談社)にも、私はこの「間」を生かした。いい英文とは必ずcomic reliefという「笑い」の空間がある。時には「泣き」の空間も必要とする。ペンとは不思議な生き物で、筆者の意思を無視して自由気ままに思考を遊ばせる。読者も(すべてがそうではないが)その余談を密かに求めている。エロチックな空間といってもいい、怪しげな空間が急に男を女に化身させる。はっと気がついたらとんでもない問題発言をしてしまっている。「間(魔)」がさしたのだ(The devil did it.)。Freudian slip(ふと本音の出た失言)もその類だ。人は、ちょっとした失言に、とてつもないsubliminal (潜在意識に印象づける)messageを嗅ぎつけるものだ。
武道家に必要なのは「構え」である。残心は次の戦いの準備でもあり、それは「構え」でもある。今の私の関心事は「外交力」だ。外交が失敗すれば戦争になるのだから、「構え」も戦争状態と考えたほうが良い。武士道の延長としての英語道も、その「構え」をcritical factorとして重視する。
敵を殺すのに刀が必要であるとするなら、敵を活かすには「間」が不可欠だ。峰打ちも「間」の効用だ。私が書く本には必ず「間」を散りばめる。例えば、コーヒーブレーク。このことについて触れたかったのだが、「間延び」してしまった。申し訳ない。
「間」を「構え」のアンチテーゼとして用いる時は、気を抜いて軽妙洒脱なムードに浸るに限る。これまで私が書いたベストセラーの中で、最も多くの人に影響を与えたのが、肩の力を抜いて書いた「私はこうして英語を学んだ」(実日新書)であった。
つい最近、日経ホールで楽天の野田氏と対談をした。演壇に立つ前の打ち合わせ時に、同席した私の三人のキーマン(野田、竹村、高田各氏)は、全員コーヒー道を実践していた。
帰宅の途中、TIMEを持って喫茶店に入る。コーヒーをブラックのままで飲み、TIMEの苦味を噛み締める。構える。砂糖を入れる。TIMEとの間合いをとる。かなり読み進んできた。もう帰る時間か、と思ったら、コーヒーをスプーンでかき混ぜる。ミルクを入れる。そのミルクが沈んでしまったら、良質のクリームではない。未練なく店を去る。
このコーヒーの飲み方を私に教授してくださったのは、「giveとget」執筆中の三十代の私がお世話になった朝日出版社の和久利という懐かしいベテラン編集長だった。私は和久利さんに甘えた。「giveとget」のイラストレーター、木村しゅうじにお願いするために、わざわざ菓子折りを手に、雨傘をさして訪問され、「松本先生がどうしてもと仰るので・・・」と。イラストレーターにもこだわる芸術家肌の気儘な私と、剣道の達人和久利さんとの間には、さわやかな緊張感があった。
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2013年5月4日 |
紘道館館長 松本道弘 |
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