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 緑と青の葛藤、矛盾(ジレンマ)を解消する色は、赤でしかない。
 赤(red)―― それは三原色の頂点に立つ禁色である。
 『仮面の告白』で述べたように、青年三島は、汚穢(くみとり)屋の男の紺色のふんどしに惹かれた。青との出会いである。それは、死への憧憬の出会いと言い換えてもいい。結婚し、俗世界に身も心も染める。濁緑の苦海を漂いながらも、三島は生気のない ―― 青い ―― 海原に憧れた。緑色の柵(しがらみ)から解放され、青色の死へ飛翔したいと、思い焦がれ続ける心的葛藤は、赤≠ナしか解消しえなかった。
 哲学者・西田幾多郎のロジックではないが、絶対矛盾の自己同一を「赤」に、情熱に、フラメンコに、そして流血に求めたのではないか。流血の死には、自殺と他殺がある。その中間の意義ある死≠ヘ殉死であろう。殉死は何色か、後述したい。
 緋縅(ひおどし)を纏った古武士の切腹! 青、緑、そして赤で生の終焉を迎える。これが旅好きな三島由紀夫の論理的帰結ではなかったか。ギリシャ哲学も、インド哲学も、すべて、三原色の旅の道草に過ぎなかった。宮崎正弘著の『三島由紀夫の現場』(並木書房)を読み終え、三島由紀夫の生涯の関心事は、「死」以外にはなかったのではないか ―― つくづくそう思った。

糸にこだわった三島由紀夫の殉死思想
 イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』に一つの誤字があった。三島由紀夫の紀を起と書いてしまった。だから、これはベンダサンではなく、訳者の山本七平氏自身の誤字に違いないと、得意気に私に語った人がいる。30年ほど前に潮出版社『潮』誌上で延々と繰り広げられた「宣誓の真偽をめぐる論争」で、山本七平氏にスッポンのように噛みついた、佐伯真光教授(真言宗住職)だ。ついに両者から判定を依頼され、佐伯真光氏に軍配を挙げたものだが、あの気まずい思いがトラウマとなって、あれ以来論争の判定はできるだけ辞退するようにしている。
 それにしても、あの「空気」の哲学で知られた、名評論家の山本七平氏が「紀」を「起」と書き違えたのか。いや氏だけではなく、多くの編集者も同じ間違いを犯す。そんなことは重要ではない。本名が平岡公威(ひらおかきみたけ)であった三島がなぜ、由起夫でなく、由紀夫と、糸偏にこだわったのか。
 三島の殉死と糸。そこに何か繋がりがある。私の本名は廸紘。明治の父が、八紘一宇の思想を託さんとして、紘の言霊を私に残したという。廸は、導くという意味だから、この廸は道でもあり、綸(みち)でもある。治国済民に欠かせない経綸(みち)へ絶えず導けという願いでもある。糸偏が縷縷出てきた。何らかの縁(えにし)に結ばれたのか、三島も私も任侠道が大好きだ。どうも奇しき因縁は否めない。ワープロを手伝ってくれている妻は、私の文体は、糸偏が多いというから何か思い当たるところがある。
 武道家あがりの私は、武士道への憧れから、英語を格闘技とみなし、英語道なるものに開眼した。ナニワ英語道とは何かと問われると、冗談混じりに極道だと答える。英語の道を極めるには、ある意味で極道でなければならない。だれか、何かに殉ずる決意と、そのための儀式が必要だ。
盃、刺青、切腹。絆を固める儀式。それらに共通する分母を英訳すればコミットメント(破れない約束のこと)になる。
 ヤクザ組織は、親分・子分、兄・舎弟という二つの、メンター制度に近い擬似血縁制度で成り立っている。
 仲間を裏切らない、という仁義は、私塾紘道館(旧弘道館に糸偏を加えた)でも、根幹をなす極道衆の思想だ。