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 CNNインターネットニュースのトップを、マザー・テレサの私書が飾った。神の存在を疑う手紙。青と白のサリー姿の、あのマザー・テレサが、神を信じていない時もあったとは。一神教の信徒にとり、この暴露記事は重大である。

 彼女をいかに定義するべきか。ディベーターの私にとり、気になる人物だ。
 かつて、彼女の奉仕の姿をこの目で確かめたいと、カルカッタのカリガートの大寺院を訪れたことがある。

 彼女の他愛的活動には、誰しもが脱帽する。
 しかし、そこはヒンズー教国のスラム街。両親から見捨てられた多くの赤ん坊は、シシュ・ババン(聖なる子供の家)でシスターたちの胸に抱かれ、初めて愛されていることを確認する。身体を洗われ、抱かれて、天国へ召されていく。

 多くのヒンズー教徒たちは、ここに疑問を感じる。短い命。儚い。群青の彼方の死後の世界は、本当に白色なのか。
 天国は白い。黒い地獄とは対極にある。
 死後の世界は、白(正)と黒(邪)を超越した「空」の世界ではないか。

 ニルマル・ヒルダイ(清い心の家=ベンガル語)で死を待つ人々の心境は、いったい何色の世界へ旅立とうと望んでいるのであろうか。気になる。
 ヒンズー教徒は、ヒンズー教徒が望むガンジス川へ。
 イスラム教徒は、コーランに従い、キリスト教徒は、新約聖書の教え通りに、あの世に送る、という方針だったらしい。

 しかし、多くのヒンズー教徒は、救いようのない弱者たちをカトリック教徒に改宗させるのか、やり方が汚い、と憤り、シスターたちに石を投げつけたという。

 だが、彼女は信念を曲げない。哲学もしっかりしている。
 「私は、社会全体を良くしようとか、苦しみのない社会を作ろうとかしているのではありません。それは他の人がやるでしょう。私は修道女です。何万ドルもらってもできないようなことでも、神さまのためならできるのです」

 神に対する揺るぎなき信念。

 それに較べ、師・故西山千に対する私の信念は揺るぎっぱなしだった。
 (本当に、この師についていっていいのか)

 マザー・テレサの幼少の名前は、アグネス・ゴンジャ(アルメニア語でつぼみ)。
いい名前だ。いずれ咲く―― 環境が整えばの話だが。

 インドという土壌が、アグネスをシスター・テレサに、そしてマザー・テレサに開花させたのではないか。

 「あのね、シスター、お金をください」
 「私はお金は持っていないの。でも、お薬ならあるわ。あなたの手、痛そうね。塗ってあげましょうね」
 シスター・テレサは、女の子の手を取ろうとしました。すると、
 「いらない!」
 びっくりするほどすばやさで、女の子は手をひっこめました。
 「弟は、もっとひどいの。だから、弟にお薬をつけてちょうだい」
 シスター・テレサは、はっと胸をつかれました。
 (こんなに小さいのに、自分よりも先に、弟のことを考えているなんて、なんてあなたはやさしい子なの)(『マザー・テレサ』P.42)

 マザー・テレサを開花させたのは、インドの貧民窟ではなかったか。
 この児童向きの伝記は、核心を突いている。

 「世のなかの人は、あまっているもの、自分はなくても困らないものを、寄付しがちです。でも、それは本当の愛ではないの。本当の愛をだれかにあげるときには、自分も傷つくものです。痛みがあるものです」(『マザー・テレサ』P.105)

 英訳すれば、Love hurts. になろう。
 Truth hurts. と同じ類だ。

 前者は、人生道。
 後者は、ディベート道。

 今、マザー・テレサがSaint Teresa(聖女・テレサ)の列聖に加えられるか、カトリック教内で行われるディベートに注目している。
 肯定側は、彼女が実現した奇蹟を立証し、否定側は、それが奇蹟でないことを反証しなければならない。
 もし、マザー・テレサが、神の存在を疑う手紙を証拠として呈示されれば、肯定側は不利になる。

 セイント・テレサは、自分は偽善者ではと疑い始めたというからビッグ・ニュースだ。 聖ではなく俗? 信仰の危機。

 彼女の数々のレターの英文をインターネットで読んで、ますます人間的に惹かれた。神の無謬性を盲信したのではなく、欠陥だらけの人間イエスに失望することもあったのだ。

 こう考えると、師の無謬性を信じなかった私にも救いがある。

 70代のマザー・テレサは、世界を飛び回った。
 その時、残った機内食を捨てる前に、お腹を空かしているスラムの子供たちに食べさせたいから、残りものをちょうだいと、航空会社の事務所へ出向き、懇願される。

 あの白と青のサリー姿で。
 マザー・テレサが、カルカッタだけでなく、デリーやボンベイの空港でも、機内食をもらいにいく姿が目撃されているという。その姿が目にちらつく。

 マザー・テレサは、ノーベル平和賞、そして聖女という肩書きなど欲しくない。男女、宗教の差を超越した、無色の世界を翔んでいる。
 なんで世の中はこんなに不公平なのだろうと、神を疑いたくもなると、日記に書こうと、それが発覚し、saint-foodを失おうと、そんなことはちっともお構いなし。

 (この機内食を一刻も早く、餓死寸前の子供たちのところへ運びたい。イエスさま、あなたも手伝って下さい)

 彼女の父なる神を疑う手紙。
 私は救われた。彼女こそ聖女。
 If she isn’t, who is!