青は死、緑は生。
三島由紀夫がこの世から去ったあと、私の心の中はaching void(ズキズキする空虚)に支配されてしまった。
その隙間を埋め、私に生気を与え、上京のきっかけを作って下さった恩人が、同時通訳のパイオニア、西山千名人であった。
その恩師も、この年の7月2日にこの世から姿を消された。
兄貴分であった三島由紀夫を失い、育ての父親であった西山千名人を失ったあと、再び憂うつな気持ちに襲われた。
Feeling blue…
そんなある日、執筆先の旅館の部屋に一匹のカマキリが現れた。
「あっ、西山先生!」と思わず心の中で叫んだ。師のシンボルは端正でスピーディーなカマキリであったからだ。緑褐色のカマキリは、それから私のそばから離れなくなった。
眼玉まで緑色のカマキリは、太陽光線から離れると、褐色に変るが、とにかく緑という原色は、生の権現である。
師は、カマキリに転生され、青の世界から緑の現世に戻ってこられたのだ。論理ではない。すでに私は信仰の世界に入っている。
師は、すでに蟷螂大明神。
死(青)から生(緑)へ戻ることは、霊の世界では不思議な現象でもなんでもない。
今、師を偲び、同時通訳の名人伝を書いているが、ふと道草をして、連載『青い糸』に戻りたくなった。
95歳でひっそりと天寿を全うされた名人に較べ、三島由紀夫は45歳、師の半分の歳で他界された ―― 天寿を全うせず。
しかし、待てよ。天寿とは生き永らえた年齢しか意味しないのであろうか。
嫉妬多き緑の世界から、妬みを不浄とする青の世界へ飛び立つには、赤い血潮を浴びなければならないことがある。
青に赤が交われば紫になる。
赤は死(青)への出口であり、生(緑)への入口でもある。
七生報国というあの三島のハチマキは、死(青)を覚悟した三島の、緑(生)へ戻る、赤の決意であったのかもしれない。
青と赤のあやしげな ―― そしてeroticな ―― 空間。
その色が紫。
今、私は、紫に囲まれて優雅な一時を過ごすことにした。知多半島の高級ホテル「源氏香」でペンを走らせている ―― 紫のスピリットに動かされて。
たまには、高級感が味わえるホテルに泊まる。―― 風変わりな発想が浮ぶかもという期待に胸を膨らませて。
「プロは、プロらしく高級意識を持て。決して、通訳だからと卑下しないように」と師・西山千から忠告を受けたことがある。
窓から海が見える。右に伊勢志摩、左にぽっかりと神島が浮んでいる。
(あそこで三島が小説『潮騒』を書いたな)
眼下には、白い砂浜が広がっている。
白い砂が、海水を含んで、褐色を帯び、灰色になる。
少し遠のくと海は緑色になる。更にその彼方に眼をやれば、青色に変り、更に遠方に眼を投ずれば、紺色になる。
ホワイトからグレイ。グリーン。そしてブルーを経て、deep blueの世界へ。日本語のアオにも濃淡がある。色の遠近法。
遠方は、消滅点 ―― 死へ誘わせるダーク・ブルーの世界になる。
そんな死地に向うには、赤の決意がいる。
紫色の色眼鏡をかけてみれば、今の私はある種の思考に耽溺(たんでき)している。
eroticismの誘惑とでも言おうか。
ソクラテスは、対話(dialogue)によって、紫のダイモン(daimon神霊)を赤と青に分けた。ディベート教育の創始者といえども、氏の人生の結末は三島のそれのように悲劇的であった。
しかしその赤(血)は、何かを産んだ。