::松本道弘 巻頭言
::例会報告
::松本道弘プロフィール
::紘道館とは?
::英語道とは?
::館長ブログ
::松本道弘 日記
::斬れる英語コーナー
::書き下ろしエッセイ
::松本道弘著作集
::講義用テキスト(PDF)
::松本道弘対談集(動画)
::ナニワ英語道ブログ
::日新報道
::TIME asia
::ICEEコミュニケーション
  検定試験
::ワールドフォーラム
::フィール・ザ・ワールド
 
お問い合わせ先

 秘花を英訳すればeroticism。
 敢えて英語で書いた。
 かたかなでエロチシズムと書けば、「色情傾向」にまで意味が翻ってしまうからだ。翻訳とは、そういうものであろう。しかし、私はどうしても英語は原書で読みたくなる。
 その究極の意味は、翻訳より意訳 ―― そしてその意味の流れを汲んで通訳した方が、隠された 意図(the message)が伝わりやすいのではと考えてしまう。
 プロ通訳者として、私は米大使館で仕込まれた。仮想敵は、いつの間にか翻訳者になった。
 読み手にとり、翻訳者は神様。そして、聞き手にとり、通訳者は神様 ―― とくに同時通訳者は。
 翻訳は眼、通訳は耳。
 ただそれだけの相違ではない。意味論をめぐって、双方の間に、微かな葛藤があり、そこに宿命的なライバル意識がある。
 たとえ文脈を意識して、秘花をエロチシズムと訳したところで、より辞書に忠実な翻訳者の方から苦情が出そうだ。
 アメリカ大使館で同時通訳の修業をしていたころ、プロ連中(とくにサイマル)、そして西山名人から、「言葉を捨てて、意味を追うのです」との忠告を受けたものだ。
 言葉を追えば、同時通訳などできない。時間と闘っているプロに、辞書に甘える贅沢など許されようはずがない。
 そこに、翻訳者と違って、通訳 ―― 師・西山千より「者」が加えられたが ―― の悲哀がある。
 「青い山」は、咄嗟に英訳できないのだ。近くは、green、遠くはblue、更に彼方になればgrey。青イコールブルーではないのだ。通訳者はいつもブルーな気持ちだ。
 言葉の裏に隠れたシンボルを追うとは、目をつむってイメージすることでもある。
 シンボルはlook(こちらから観る)すれば判る ―― 誤解も生じるが。
 イメージは、目をつむっても、その言葉のシンボルがsee(あちらから見えてくる)できるものだ。
 「通訳は機械じゃない」を翻訳すれば、Interpreters aren’t machines. となろうが、通訳者 ―― 西山千級になれば、と限定しておこう ―― は、furniture (家具)に変る。”I’m not a piece of furniture.” は、かなり私憤の強い表現だ。
 話者が、「オレは家具と言っているのではない。マシーンと言っているのだ」と怒っても、通訳者は、その意味の「流れ」を汲んで訳したのだと開き直れる。しかも抗弁の余地はある。大概の場合、それで許される。一瞬の話芸では訂正が利かないからだ。
 それがゆえに、通訳者の地位は、リスキーな職業であるにも拘らず、かつて通弁と呼ばれた頃から社会的地位は、翻訳者に較べて遥かに低いとされる。語られた言葉は残らない。引用すらもされない。
 そういう空気に逆らって、通訳者の地位を確立しなければ、浮ばれないのでは、と悶々とされていたのが我師・西山千であった。
 オレがやらなければ誰がやるのだ、というdesperate(崖っぷちに立った)な心境で師は闘われた。当時その気持ちが判らなかった。私は青かった(I was green.)。

 師・西山千名人のイメージ論はこうなる。
 たとえば翻訳者がfurnitureを「家具」と訳したとしよう。読者はそれを「家に備え付けられた道具類」とイメージするだろう。しかし通訳者は、文脈上もっと「流れ」を重視するから、時には大きく飛躍する。
 「(通訳は、機械のような)便利屋さんじゃないんだ」と通訳するかもしれない。イメージにウエイトを置けばリスキーになる。
 話者の表情を見ながら、そして言葉の表現から流れる意味を汲みながら、大和言葉調に通訳されていた師の同時通訳は、まるで神業であった。
 日本人が抱くfurnitureのイメージは、動かないものであるが、引越し慣れしているアメリカ人のそれは、しょっちゅう動かされるものである。だから、日本人が「機械じゃないんだ」と言えば、機械の英訳はfurnitureに変っていたりする ―― もちろん文脈によって違うが。
 同時通訳が言葉を消す芸術というのはそういう意味だ。
 翻訳者は、通訳されたトランスクリプションを丹念にチェックする。それは、拷問に近かった。 今思い出しても、米国大使館での鬼の特訓は悪夢であった。
 西山名人にとり、英語も日本語もどちらも母国語であるから、言葉のシンボル、そして意味する ところのイメージが瞬間に、文化的に転換されると、凡人の耳にはついていけない。
 日本語も英語も、私の耳には、どちらも音楽のように響く。
 私もいつの間にか、西山流派を継ぐようになってから、師の技を盗むようになり、今も師の真似事をしている。
 つい、「わかりません。すみません、いま英語で考えていますから」と、答えてしまう。気障な野郎だとの反感を買うことは覚悟のうえだ。
 私は今も、亡き師の影を踏まないように気を配り、しかも御百度を踏む思いで、師から学んだ教訓を実践し続けている。
 師の風姿を伝えんとペンを執ったが、なかなか進まない。これまで自分に都合のいいように書いてきた、文筆家のはしくれであった私が、初めて、亡き師のため、そして世のため通訳者の道を書こうと、「公け」を意識し始めた頃から、私の頭も錯乱し始めた。
 青の世界に入った人は、英霊と同じような、妖しげな磁力(eroticism)を持つものだ。日本は死者の国だ。三島由紀夫の霊は永久磁石化してしまった。
 秘花の訳について書こうとしたが、まえがきがここまで長くなるというのも、錯乱状態の証左といえよう。

 人は、秘花に惹かれる。顕花はlookするもの。そのシンボルの解釈は人任せ。しかし、秘花は、イメージするもので、see(あちらからこちらへ=見えてくる)するもの。眼をつむれば花は見えないが、秘花は見えなければ見えないほどイメージは膨らむものだ。
 秘花は磁石であり、花は電池である。充電するためには、しょっちゅう取り替えなければならない。それがいやなら造花。死んでいる。充電しなくてもいい花はないものか。
 それが古代ギリシャ人が求めたエロス。人を惹きつける根源的な愛だ。そしてエロスとは、ダイモン(守護神)のような磁石的存在であった ―― そこにはdemonic(小悪魔的)でいたずらっぽい(playful)な遊びがある。
 エロスとは、アフロディテの息子で恋愛の神であり、ローマ神話のキューピッドに当たる。だからどうしても性愛に結びつく。精神分析の分野では、エロスはlibido(性欲)、そして自己保存本能(life instinct)を意味し、死の本能(Thanatos)と対比される。故・三島由紀夫はこの間を彷徨した。
 生き残るために必要な、情欲がエロスとなれば、それは生殖、つまり発生を意味するので、そこにはダーティーなイメージはない。eroticismとは、結びつける神意(divine will)なのだ。
愛(love)は便宜上、erosとsexに分けてみよう。
 erosは、何か創造するための結びつけであれば、それは必ずしもオスとメス、男と女の結合を意味しない。
 美に憧れる、勇気に憧れる、名人芸に惚れる。
 それらはすべからく、見えざるエロスの成せる業だ。
 sexは違う。ラテン語のsexusはsplit(分裂)を意味するから、語源上、男と女が切り離されることになる。師・西山千と私の間には、男色関係はない。sexはない。しかしそこに永遠のエロスがあった。
 もっともエロスは性(情)欲と結びつきやすいが、もともとの意味は、欲求、憧憬といった根源的なエネルギーであった。師の遺骨や遺灰がなければ、師に似たカマキリでもよい。そこにエロスを感じれば、創造性は永遠に約束される。それがエロスだ。
 明治時代にsexという英語が日本文化に迷入し始めたが、それまでの日本人は性を「色」と呼んでいた。色は磁石だと『日本の気概』(日新報道)で述べた。
 色男とは、好男子というニュートラルな意味以外に、「もてる男」(磁石のようにattractiveな男)が第一義であった。そして付随的に「好色な男」となった。決して色男がエッチな男という意味ではない。
 それはすべてsexに結びつける今風の解釈だ。エロスには性愛以上のものがある ―― 惹きつける磁石的な魅力。
 だから、eroticismが「秘花」に結びつくのだ。

 自分の野心とか、自己実現のための戦略とは、人に見せてはならないものだ。秘すれば花。
 『Love and Will』(Dell)の著者であるRollo May博士は同書の中で述べる。
Eros is the yearning in man which leads him to dedicate himself to seeking arete, the noble and good life. (P.73)
 (エロスは高貴で善良な生活を求めるために身を焦がす男子の熱望)
 これは私の訳である。今は男女平等の時代だから、どこかの男女同権論者から「このmanは男ではなく、人間のことだ。All men must die. はあらゆる人のことじゃありませんか」と、クレームがつきそうだが、敢えて私は一般論でいく。
 品格は男。国を守る気概も男。大臣になることが、「女の本懐」という発想は私の中にはない。
もし、高貴な生活の追及が男の本懐なら、このerosは品格になる。私がかねてより、「品格」と同時に「気概」も必要だというのは、両者の共通分母がerosであるからだ。
 「公益のため」というのはerosが内存する創造性のことであり、sexにはそれがない。このようにerosをsexと対比させるとその違いはより鮮明になる。
 Sex is a need, but eros is a desire. (性交は欲求、しかしエロスは欲望)
 品格だけの品格なら、それはsexという名の快楽に過ぎない。エロスは、その原点にある創造性を伴う欲望である。だからもっと根源的である。
 気概はしたがってerosである。
 「品格」の藤原正彦と、「気概」の松本道弘がディベートをするとすれば、肥沃な交接を熱望するeroticismを共通分母としなければ不毛になる。ディベートは、本来肥沃な(erotic)精神風土でしか実現しない受精現象である。
 その意味で妙花を約束するdebateは、eroticismと同種である。弁証法でいう止揚(アウフヘーベン)とは、生物学的にいえば、受精、心理学的にいえばお互いに高め合う(draw each other upward)ものである。人をしてメロメロに昇華させる。物理的にいえば、気体化現象といえよう。
ゲーテはそんな難しいことはいわず、女とはそういう存在だと捉えた。こっちの方が判りやすい。
女に限定するとsexになるが、限定しなければerosになる。神風特攻隊は、究極のエロスである。
オルガスムスが経験できないと病状を訴える不感症の患者に、それを経験させる、最もてっとり早い方法は、死の恐怖を体験させることだ。精神分析医は要らない。
 今、ヘア・ヌードやポルノの時代。アダルトビデオが氾濫し、性風俗はますます淫靡化する。カップルをしてsexlessにさせる。
 eroticism(秘花)が消え失せていく。一方的な愛(loveのこと)が解放されると、ポルノが解禁され、erosの花は萎む。文明が文化を踏み躙っていく。

 ソクラテスは、愛とは何かを考え続けた挙句、「必滅(モータル)でもなければ不滅(イモータル)でもない。その真ん中に存在するもので、神と人間を繋ぐダイモンだ」と述べた。やはりspiritなのだ。
 フロイドは、リビドー(性欲)は人を死へ導くという。死の本能は自己破壊に至るが、それを救うthe spirit of lifeがエロスだという。品格を守るために、サムライは死を選ぶ。それに歯止めをかけるのがエロスだというのだ。エロスは全体を活かすために闘う。
エロスはyearning for wholeness(全体への希求)である。これぞ聖徳太子の述べた「和」に他ならない。wholeness(全体)への熱望、憧憬がエロスなら、まさしく日本人が求めている和道≠サのものではないか。
 和道は念仏ではない。「行」そして「道」であるはずだ。
 ディベートと<道>を結びつけた私の意図は、真理との交接=iUnion with the truth)であったが、それがeroticismの極致であることに気づかせたのは、もしや今私が握っているこの万年筆なのかもしれない。
 この手にあるペンは、カマキリを内部から動かすハリガネムシのように、死路へ誘わせる。三島由紀夫という大カマキリは、内部のハリガネムシ(緑色の蛇だろう)との死闘の一生を殉死という形で終えた。それはエロスの勝利であったのか、敗北であったのか?
 故・西山千師匠を追慕しながらも、日本の将来を憂い、『日本の気概』を書き終えたものの、まだ燃え尽きぬ、私の憂国の情は、自己発生的なエロチシズムにより翻弄されているかのようだ。